しばらくお休みしてました「今週の一冊」
改めて、本を読むことの大切さと山口県を代表する歴史上の偉人でもあり、明治維新の礎を築かれた吉田松陰先生に関する本です。
小学生の高学年向けに書かれており、わかりやすく読みやすく幕末の時代を駆け抜け国を想い散った、わずか30年の一生が書かれてます。
1.学ぶことを知る父の教え~幼少期
杉家の次男として生まれた松陰先生は、父親が畑仕事をする間、本を与えられます。
そして覚えている一文を父親が声高らかに 唱えると、兄がそれに続き、さらに続こうとしますが、なかなかできなかったそうです。
そして父親が2人の息子に言います
「もっと大きな声で! お前たちは男であろう、男はどんな時でも元気を無くしてはならぬのだ」と
こうして2人の兄弟は、よく意味のわからない「論語」や「孟子」などを口真似をしながら覚えていきます。
その後、兵学を学び、11歳の時に藩主である毛利敬親(もうりたかちか)の前で講義を行うまでになります。
2.学ぶ姿勢は変わらず、そしてペリー来航
兵学を学んだ後、九州を中心に遊学し国防の大切さを感じ取ります。
そんな折にペリーが浦賀に黒船で来航し、日本に開国を迫り、その答えを求め、その一年後に今度は下田へ来航します。
ここで日本は、日米和親条約を結び開国へと進むわけですが、松陰先生は 世界に対して日本の遅れを憂い、なんとかペリーとの接触を試みますがうまくいきません。
当時、その行為は 鎖国状態であった日本にとって許されることではありません。
そして生まれ育った萩の地に送還され投獄されます。
この時、齢25歳
3.野山獄で囚われの身となる
萩に帰るなり、投獄生活が始まります。
つまり、 牢屋に入られれた訳です。
この絶望的な中、 今まで学んできた学問と命をかけ国の為続けてきた行動が活かされます。
普通なら、悪事をしての投獄ならまだしも、国の為にやってきた行為に対し、国賊扱いとなり普通ならば自暴自棄になるはずです。
しかし歴史に名を残す人は言っている言葉が違います。
松陰先生曰く「獄では行動は自由にできないが、心は自由である。本を読んだり、ものを考えるには最も良い場所だ」
この間に、地理や歴史、医学や兵学、そして伝記や政治の本を読まれます。
獄中生活は、1年2ヶ月にも及びますが、その間に読んだ本の数は620冊
一ヶ月にすれば40冊を読んでいたことになります。
4.松陰先生の読書術
ただ読んで知識を得るだけでなく、大事なところは書き出し、さらに自分の考えをも加えていました。
そして読書について、このようなことも言われてます
「書物を読むことは、昔の立派な人に会い、いろんな教えを受けられる。そしてその教えを今の世に生かしていくことが大切だ」
読んだだけで満足せず、時流にそって知識を生かす、その為の行動があってこそその価値があるということだと思います。
5.獄中で変化が起きる
普通なら、過ちを犯してないのに牢獄に入れられたら、もしあなたならどうでしょうか?
私の好きな映画でデンゼル・ワシントン主演の「ザ・ハリケーン」という黒人ボクサーが無実の罪で投獄され身の潔白をはらすため、事実を立証するため生き抜きそして最後に裁判で勝利を勝ち取るというストーリーの映画のシーンとだぶりました。
松陰先生が投獄されていた野山獄の囚人は、希望を失い心がひがみ、毎日愚痴ばっかりいっていたそうです。
しかし先生が毎日、熱心に本を読んだり書き物をする姿を見て、その偉さを感じ獄中の人が誰かれともなく「何か話をし教えて下さい」と一番年下であった松陰先生に懇願してきたそうです。
そこで松陰先生は、 孟子の教えから 、人の生きる意味やその大切さ、人として守らなければならない道徳など説き、 たとえ獄中にいても良心を失わず、明るく生きていけば幸せであるということを伝えていきます。
さらに、囚人たちと話し合って、習字の上手い人は教える立場となり皆に字を教え、また同じように俳句が得意なものは俳句を教えるようになり、松陰先生自身も皆と一緒に学ぶうちに獄の雰囲気も明るくなっていったそうです。
さらに変化は続きます
このような変化に牢役人も驚き、自らも講義を聞くようになり、こんな立派な方をいつまでも牢獄に入れていてはいけないという声があちこちからあがり、はれて野山獄から出る日が来る訳です。
6.松下村塾の再興
明治維新の志士達が巣立った松下村塾は本人が興したわけでなく、13歳の頃、厳しかった叔父の玉木文之進が学びの場として使っていたものです。
その場を再び学びの場として 再興し、武士であろうが農民であろうが身分がどうあれ自身の教えを説いていきます。
その人にあった教えるスタイルをとっていき、真心をもって物事にあたっていくことを伝えていきます。
【松下村塾での教え】
○真心を込めてやれば、できないことはない。どんな人でも真心を込めて話し合えばきっとわかってくれる。
○何事をするにも、しっかりとした志を立てることが大事である。
○学問をはじめたら、やり終わるまでに強い心を持って頑張り抜かねばならない
このような教えのもと、明治維新の立役者が数多く輩出された訳です。
そんな中、 今にして思えば、当時の松陰先生は既に自身の死を感じ取っていたのかもしれません。
親しい僧侶に下記のような手紙を送ってます
「たとえわが身が幽囚となり、首を切られても、必ず自分の志を継ぐ者を後世に残す決意である」
「この私の誠は、いつか必ずわかってもらえると信じている。誠を尽くして、それを感じない者はいないのです」と
まさに目頭が熱くなる、そして爪に火を点す思いが感じられます。
命をかけた講義が当時の松下村塾では行われてたはずです。
7.再び野山獄へ、そして江戸に
当時、反幕派をきびしく取り締まる江戸幕府の老中を倒そうと藩に申し出ます。
しかし、 幕府を怖れる役人から松陰の学問は人の心を惑わすという理由で、再び野山獄へ投獄されます。
さらにその後、江戸へ送られます。
江戸へ送られるということは、幕府の元で裁きを受けるということです。
このことが松陰先生には、どのようなことかは察しがつきました。
つまり、死を意味することです。
死を悟っても本人は冷静でした。
「正しい考えを貫き、国の為なら死んでも良い。少しも怖れぬことはない」と言っています。
そしてかの有名な言葉に繋がります。
「至誠にして動かざるは、未だこれにあらざるなり」
(人は真心をもってすれば、どんなものでも心が動かないことはない)
「今こそこの言葉の真を問える」と言葉を残し江戸へ送られます
8.吉田松陰の最期
江戸へ送られ、裁きを受け、あること無いことの罪をきせられ死の宣告を受けます。
至誠にして動かざるは、未だこれにあらざるなりと強い想いで江戸に入るものの、その時代において松陰先生は30歳の若さでこの世を去らねばならなくなります。
そして人を恨まず、自分の学問が及ばなかったことを悔い、このような言葉を残されてます。
「自分の学問の修養が浅い為、至誠がその力をあらわすことがず、幕府の役人の考えを変えることができなかった」と
さらに2つの名言をも残されてます
「親思う心にまさる親心、今日の音づれ何と聞くらん」
大切におもう萩の両親、自分が思う以上に私(松陰)を大事に思ってくれる親の気持ち、死の宣告を受けたこの事実を何とおもうだろうか
「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」
たとえ自分の命は無くなっても、この国を思う気持ちはいつまでも残るであろう
30歳の若さで刑場の露と消えた短すぎる人生
死の直前に際しても、凛として国を想い親を慕う気持ちを内に秘め、まさに明鏡止水の境地で臨まれた様子が想像できます。
松陰先生の首を切った 役の浅右衛門が後々に伝えた言葉です
「これまで多くの武士を手にかけてきたが、これほど最後の立派な人は見たことがない」と
至誠をもって一生を貫き通した歴史の上でも永遠に語り継がれるべき人物です。
もっと深くこれから、吉田松陰先生を学んで行きます。