1865年12月15日 高杉晋作功山寺挙兵

昨年は明治維新150年目の節目の年でもありました。

そして今年は平成から令和へと時代が変わりました。

今から150年以上も前、一人の歴史上の人物が時代を変えるという志の元、下関の功山寺で挙兵し、そこから時代が動いたといっても過言ではありません。

そうです 154年前の本日夜 幕府にひざまずこうとしていた長州藩の俗論派(いわゆる保守派)に対し、これでは行けないと決起したのが高杉晋作です。

功山寺・高杉晋作像

1.死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。

高杉晋作が獄中の吉田松陰に充てた手紙で問うたことが男の死際についてでした。

そして吉田松陰先生が高杉晋作に返した書面の一部が「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。 生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし」と書かれてあります。

それは、自分が後世に名を残す、命をかけてもよいというその瞬間こそが、男の死際である。しかし未だやり遂げていない大業があるならば、その成し遂げられるその日まで何としてでも生きよ!ということです。

154年前の夜 高杉晋作は自身の中のこの言葉を持って挙兵という行動を起こしたのです。

2.諸隊80人VS恭順派2,000人

高杉晋作のもとに集まった諸隊は80人
対する幕府に逆らってはならないという長州藩内の恭順派が2,000人

数からいけば勝ち目のない戦いにおいて、高杉はこの80名で充分といい下関の新地会所に夜襲をかけ武器を奪い、物資と情報が集まる下関を元に萩の恭順派に戦いを挑みます。

今振り返っても、私もそうですが、誰がこの無謀とも思える戦に参戦するでしょうか?

まさに「一度(ひとたび)動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」の言葉を証明する彼の有限実行力です。

そして、その彼を突き動かしたバックボーンとなったものが、師であった吉田松陰先生の無念の死、国の未来を想う気持ち、アヘン戦争で西欧の属国となった中国の有様など、様々な想いがうごめきひしめき合い高杉晋作の志が挙兵という形になったのでしょう。

3.2019年12月15日に何を想う

ホント最近は、高杉晋作の話を人に語り伝えるだけで目頭が熱くなります。

それだけ、国を想い藩を想い、そして自分自身の志の元に明治維新を成し遂げる大きなきっかけをつくった高杉晋作。

彼がいなければ、明治維新も無かっただろうし、山口県も今のような形であったか?どうか?定かではありません。

若干29歳という若さでこの世を去った彼の短すぎる一生は、あまりにも激しすぎる激動の時代に生きた証として今でも、そしてこれからも失せることがあってはいけません。

150年以上も前の12月15日の夜、どのような想いで挙兵し恭順派や幕府に挑んでいったか?

彼の歴史上の功績に深く感謝するとともに、改めて自身の志とは何なのか?を功山寺挙兵時の彼の心境を想像しながら、毎年毎年自問自答していきます。

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