昨年は明治維新150年目の
節目の年でもありました
そして今年は平成から令和へと
時代が変わりました
今から150年以上も前に
一人の歴史上の人物が
時代を変えるという志の元
下関の功山寺で挙兵し
そこから時代が動いたといっても
過言ではありません
そうです
154年前の本日夜
幕府にひざまずこうとしていた
長州藩の俗論派(保守派)に対し
これではいけないと決起したのが
あの高杉晋作です

1.死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし
高杉晋作が獄中の吉田松陰先生に
あてた手紙で問うたことが
男の死際についてでした
吉田松陰先生が高杉晋作に
返した書面の一部
「死して不朽の見込みあらば
いつでも死ぬべし」
「生きて大業の見込みあらば
いつでも生くべし」
と書かれてあります
それは、自分が後世に名を残す
命をかけてもよいというその瞬間
それが今なら、その時が
男の死際である
しかし未だやり遂げていない
大業があるなら
成し遂げられるその日まで
何としてでも生きよ!
ということです
154年前の夜
高杉晋作は自身の中の
この言葉を持って挙兵という
行動を起こしたのです
2.諸隊80人VS恭順派2,000人
高杉晋作のもとに集まった
諸隊は80人
対する幕府に逆らってはならない
長いものにはまかれろ的な保守派
いわゆる恭順派が2,000人
兵数からいけば勝ち目のない
戦いにおいて
高杉はこの80名で充分といい
下関の新地会所に夜襲をかけます
武器を奪い、物資と情報が集まる
下関を拠点とし
いよいよ萩の恭順派に
戦いを挑みます
今振り返っても、私もそうですが
誰がこの無謀とも思える戦に
参戦するでしょうか?
弟分の伊藤博文曰く
「一度(ひとたび)動けば雷電の如く
発すれば風雨の如し」と
彼は有限実行の人でした
そして、その彼を突き動かし
バックボーンとなったも
それは師であった
吉田松陰先生の無念の死
国の未来を想う気持ち
アヘン戦争で西欧の属国となった
中国(清)の様子など
様々な想いがうごめき
ひしめき合い高杉晋作の志が
挙兵という形になったのでしょう
3.2019年12月15日に何を想う
ホント最近は、高杉晋作の話を
人に語り伝えるだけで
目頭が熱くなります
それだけ、国を想い藩を想い
そして自分自身の志の元に
明治維新を成し遂げる
大きなきっかけをつくった
高杉晋作
彼がいなければ、明治維新も
無かっただろうし
山口県も今のような形であったか?
どうか?すらわかりません
若干29歳という若さで
この世を去った
彼の短すぎる一生
あまりにも激しすぎる
激動の時代に生きた証として
今でも、そしてこれからも
失せることがあってはなりません
150年以上も前の12月15日の夜
どのような想いで挙兵し
恭順派や幕府に
挑んでいったか?
彼の歴史上の功績に
深く感謝するとともに
改めて自身の志とは何なのか?
を功山寺挙兵時の彼の心境を
想像しながら、
毎年毎年自問自答していきます