赤禰武人(あかねたけと)という人物に対する誤解

歴史を振り返れば、今から150年前の幕末
山口県では明治維新の立役者となる数多くの偉人を排出しました。

吉田松陰先生に始まり、久坂玄随、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋や木戸孝允など。

特に代表的なのは、奇兵隊を創設し幕府軍15万を相手に戦い、またイギリスと停戦講和条約では「下関の彦島を割譲しろ」との要求に延々と古事記を語り、相手国の要求を飲なかった高杉晋作は今の日本の政治家にない交渉力と行動力を持った偉人と言えます。

さて、その高杉晋作と袂(たもと)を分かった岩国出身の人物「 赤禰武人 (あかねたけと)」がいます。

高杉晋作が大好きな私は、ずっと 赤禰武人 のことを、理想主義の行動力に欠ける、言葉は悪いが腰抜けのような人物に思ってました。

しかしこの度、 赤禰(あかね)武人の史実を知ることができ、改めて彼に対し間違った認識をしていたことに気づかされました。

1.史実を知る一冊の本

言ってしまえばマンガでわかりやいのですが、 「赤禰武人 の冤罪/村上馨太郎著」「馬関攘夷従軍筆記」など18冊の文献を参考にしてつくられた歴史の事実を語る本です。

幕末を駆けた一陣の風  赤禰武人 伝

2.第3代奇兵隊総督・ 赤禰武人

初代総督は言わずと知れた高杉晋作です。

しかし奇兵隊員であった農民が武士に切りつけた事の責任を負って高杉は、その職を辞してます。

その後、当時の長州藩では幕府方に許しを請うて長いものに撒かれろ的は俗論派が幅をきかせていました。

一旦身を引いて九州にいた高杉は、その知らせを聞き、長州(山口県)に帰り、徳川幕府になびこうとする長州藩に対し、決起をします。

そして、その有志を募る為、最初に訪れたのが彼の古巣である奇兵隊の詰め所です。

しかし、当時の奇兵隊の総督であった 赤禰武人(あかねたけと) は幕府の勢力と藩内の状況、そして話し合いをもって新たな道を模索してたことから高杉と意見が分かれます。

行動力と武力を持って時代をひらいていこうという高杉晋作

一方、話し合いをもち、同じ長州藩内で争っている場合ではないと主張する 赤禰武人

国を変えよう、時代を変えようと2人の想いは同じながら、相交わらなかった訳です。

3. 赤禰武人 の最期

高杉晋作の挙兵により、その勢いは80人が2,000人となり長州藩内から俗論派(保守派)は一掃され、再び改革派が実権を握ります。

そして 赤禰武人(あかねたけと) は、裏切り者よばわりされながら薩摩の西郷隆盛に会うために大阪に向かいます。

しかし、その途中で幕府の役人に見つかり拷問を受ける中、幕府の第2次長州征伐の情報を知ります。

当時の長州藩4千と幕府方15万ではその勝敗は目に見えています。

赤禰武人(あかねたけと)は長州へ戻ることを嘆願し、幕臣の見張りがある中で大阪から長州へ帰る道中、各地で様々な説得を試みます。

しかし耳をかすものはおらず、それどころか 長州藩からは幕府のスパイとみなされ囚われます。

そして、取調べの席で、一言も発言の機会を与えられず斬首されます。

4.至誠、天に通じず

さぞ、無念だったと思います。

もし、高杉晋作と違う時代に生まれていたなら彼もまた歴史に名を残した偉人になっていたかもしれません。

本の最期に書かれています

「歴史には高杉晋作のような英雄がいる。しかしその陰で志を同じくし、必死で働きながら非業の死を遂げた者は多い」と。

自らの弱い部分を知り、それが為に自らができることに誠を尽くしながら不運の結末となった 赤禰武人 。

いつかは岩国市の柱島にある 赤禰武人 の墓標に手を合わせ、志半ばで散っていった彼らの命の元に今日があるということに、改めて感謝と哀悼の意を示します。

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